掲載日:2023年1月17日

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2022年発掘調査情報

発掘調査

A.通常事業に伴う発掘調査

 

B.復興事業に伴う発掘調査

昨年度までに、予定されたすべての野外調査を終了しました。現在、報告書刊行に向けた整理作業を行っています。

A.通常事業に伴う発掘調査

1.吹付窯跡・大衡中学校東遺跡・彦右エ門橋窯跡・河原遺跡

【基本情報】
所在地 黒川郡大衡村大衡字萱刈場ほか
調査原因 国道4号拡幅工事
調査期間 令和4年5月9日~
調査主体 宮城県教育委員会
調査協力 大衡村教育委員会
調査面積 調査中
【調査概要】
  • 大衡村で国道4号線の拡幅工事が計画され、計画範囲内には彦右エ門橋窯跡、吹付窯跡(ふつけかまあと)、大衡中学校東遺跡、枛木(はぬき)E遺跡、河原遺跡の5遺跡が含まれていました。そこで、工事着手前に事業者と宮城県教育委員会、大衡村教育委員会で遺跡を現状のまま保存することができないか協議をかさねましたが、やむを得ず工事で壊されることになった箇所については、詳細な記録をとって後世に残すための発掘調査を実施することとなりました。調査は宮城県が主体となって令和元年度から継続して実施しています。
発掘現場通信第1号

今年も国道4号線拡幅工事に伴う発掘調査がはじまりました。

一昨年から開始し、好評をいただいている「発掘現場通信」を今年も更新していきますので、どうぞよろしくお願いします。

調査を予定している遺跡1

図1:調査を予定している遺跡

大衡村遺跡地図2

図2:吹付窯跡の範囲

 

発掘調査の準備

第1号のテーマは「発掘調査の準備から開始まで」です。

発掘調査は、事前の計画と準備をしっかりしてからスタートします。

当課作成の発掘調査安全衛生管理マニュアルを確認しながら、道具の準備、プレハブやトイレの設置、安全対策のためのバリケードなどの設置を行います。今年も安全第一で調査を進めていきます。

写真1

写真1:道具を積んで、いざ発掘調査現場へ出発!

車に積まれている道具は準備したもののごく一部です。発掘調査では、この車だけでは運びきれないほどの多くの道具を使用します。

写真2

写真2:安全確保のために、道路と調査区の間にバリケードを設置します。

調査の開始

準備も整い5月11日(水曜日)から吹付窯跡の調査を開始しました。

調査ではまず、遺跡内で工事が行われる範囲の表土を除去して、当時の人々が生活した面まで掘り下げ、住居跡・井戸跡などの生活等の痕跡、土器や石器などの出土の有無を把握することから始めます。

吹付窯跡では過去に須恵器(すえき)や瓦が採集されています。さあ、今年はどのような発見があるのか・・・。今後、調査の進捗状況や調査成果を、写真を交えながら紹介していきますので、是非また訪れてみてください!

写真3

写真3:南西からみた調査区全体の写真です。

写真4

写真4:重機で表土を取り除きます。

発掘現場通信第2号

第2号では、吹付窯跡の発掘調査の進捗状況について報告します。

人々が生活した痕跡を探す

天気にも恵まれ、調査は順調に進みました。重機による表土除去後、道具を使い人力で土を削って、色や硬さに違いがないか慎重に確認します。

発掘調査で使う道具1

写真1:発掘調査で使う主な道具です。人力作業は想像よりも力が必要です。

吹付窯跡の調査成果1

写真2:調査の結果、やや曲がった筋状の黒い部分がみつかりました。くぼんだところには時間の経過とともに雨などに流された土が入りこみ、周囲の地山とは色の違いが生じます。

吹付窯跡の調査成果2

写真3:黒土を取り除いてみるとなだらかにくぼんでおり、地形に沿って傾斜し曲がっていることから、この筋状の痕跡は人が掘ったものではなく、地形によって自然に水が流れた跡だということがわかりました。深さは約12cmで堆積状況を観察するため、3箇所で土をベルト状に残しています。黒土の中からは土師器と呼ばれる素焼きの土器の小さな破片が2点出土しました。

吹付窯跡の調査成果4

写真4:土の堆積状況の断面写真です。一番上が現代の盛土、その下の黒い土が盛土以前の表土、更にその下の黄色い土が地山で、くぼんだ部分に黒い土が入り込んでいます。

吹付窯跡の調査での図面作成の様子

写真5:土の埋まる過程や形状を図面や写真に記録して調査は終了です。どんなに暑くても、寒くても・・・正確第一です(笑)。

測量機械を使った図面作成状況

写真6:図面作成では測量機械を使用することもあります。奥の機械(赤)が光を出し、調査員がもつミラー(黄)からの反射を計測して、瞬時にパソコン上に図面を描いてくれます。

吹付窯跡の調査が終了したので、次は大衡中学校東遺跡の調査に進みます。

発掘現場通信第3号

6月1日(水曜日)から、大衡中学校東遺跡の調査が始まりました。

大衡中学校東遺跡の範囲

図1:大衡中学校東遺跡の範囲。この遺跡では、過去に縄文土器が拾われています。また、昨年度の調査では平安時代以降に耕された畑の痕跡(小溝状遺構群)がみつかっています。(2021年発掘調査情報発掘現場通信第6号

今年度はどのような発見があるでしょうか。

安全に発掘調査を進めるために

6月から作業の補助をしていただく作業員のみなさんが合流しました。様々な年齢の方が集まっていて、調査経験が浅い方もいらっしゃいますので、まずは調査員による安全衛生講習会を実施しました。多くは地元の方々なので地域の歴史に対する興味・関心も高く、発掘調査に対する熱い情熱をひしひしと感じます!

安全衛生講習会の様子

写真1:安全衛生講習会の様子です。安全に作業を行うために、発掘調査の手順や注意点などを説明しました。また、日々の何気ないコミュニケーションも事故防止につながるため、誰にでも話しかけやすい雰囲気づくりを心がけています。

現場での安全対策

梅雨時期に入りますので、安全に調査を行うための様々な工夫をしています。

北側の調査範囲

写真2:重機による表土除去後の北側の調査範囲の様子です。梅雨時期では、堀り上げた土が長雨により流れ出ないように、ブルーシートをかけ、土のうでしっかりと固定します。また、水が湧いてくる場所では、ポンプを使って排水作業を行い、水が道路などにあふれ出ないようにしています。さらに、作業を行う上で危険な、周辺に落ちている枝や石などを取り除いたり、足下が不安定な場所にはアルミ製の板などで足場を設置したりします。

日々の小さな安全対策の積み重ねが重要です。

コレってなぁに?いつのもの?

大衡中学校東遺跡の発掘調査は、南側の調査範囲から開始しました(図1)。

南側の調査範囲

写真3:西からみた南側調査範囲の様子です。重機による表土除去後、道具を使い人力で土を削って、むかしの人々が活動した痕跡がないか慎重に確認しました。

遺構の検出状況

写真4:確認の結果、丸い平面形をした穴(土坑)と小さな溝跡がみつかりました。土坑と溝跡には周囲の地山とは色の違った同じ黒土が堆積しています。さて、これらは何か?いつの時代のものなのか?この時点ではまだわかりません。

遺構の掘り下げの様子

写真5:堆積状況を観察するため、土を半分残しながら、人力で黒土を取り除いていきます。

遺構の断面写真

写真6:土を半分残して底を出した様子です。調査では、かたちや大きさ、堆積した土の特徴、出土遺物など、調査で収集される様々な情報から用途や時代などを探っていきます。穴の大きさは直径2mほどあり、深さは30cmほどでした。土の中にはガラスの小さな破片が混じっていたことから、これらは現代に掘られたことがわかりました。詳しい用途は不明ですが、ゴミ捨て穴だったのかもしれません。

次回は、北側の調査範囲について報告します。昨年度の調査で平安時代以降の畑の痕跡がみつかったすぐ西側です。

発掘現場通信第4号

今年は驚くほど短い梅雨が終わり、夏本番となってかなり暑い日が続いています。現場では、熱中症に注意しながら調査を行っています。大衡中学校東遺跡の調査は、北側の調査範囲で実施しています。

発掘調査状況1

写真1調査範囲内では雨水などが地面から湧き出してくるため、地面がすぐにぬかるんでしまいます。足元の安全を確保しながら、排水作業と調査を同時に行っています。

溝がつくられた順番は?

小溝状遺構群1

写真2:南からみた調査範囲の様子です。道具を使って人力で丁寧に土を削り、むかしの人々の活動した痕跡がないか慎重に確認します。その結果、平行して東西方向に延びる多数の溝跡とそれらを囲う方形の溝跡がみつかりました。これらの溝跡は、昨年度調査した畑跡(小溝状遺構群)(2021発掘調査情報発掘現場通信第6号)の西側の続きになります。

小溝状遺構群2

写真3:一部では溝跡が白い灰を掘り込んでいる様子が確認されました。このことから、灰が積もってから溝が掘られたことがわかります。915年頃、秋田県と青森県の県境にある十和田火山が噴火し、その時の火山灰が宮城県内各地にも降り積もったことが過去の発掘調査等で確認されています。今回みつかった白い灰も同様のものと考えられることから、畑は少なくとも915年よりも後の時代につくられたことがわかりました。

畑の畝の痕跡と南北方向の溝1

写真4:南からみた調査範囲全体の様子です。畑跡(緑)の西側であらたに南北方向に伸びる溝跡(青)がみつかりました。さて、(緑)と(青)はどちらが先につくられたのでしょうか。

畑の畝の痕跡と南北方向の溝4

写真5:土の堆積状況の断面写真です。土の色や混入物の違いなどを観察した結果、南北方向の溝跡(青)は畑跡の上に堆積した土(緑・黄)よりも更に上から掘り込まれていました。畑が耕されなくなり、時間の経過とともに雨などに流された土で畑が完全に埋まってから、(青)の溝が掘られたことがわかります。

現場では、このような新旧関係を表現する際、新しい遺構(A)が古い遺構(B)を壊して掘り込まれていることから「(A)が(B)に勝っている。」なんていう言い方もします。面白いですよね!

完掘状況1

写真6:溝跡の土を全て取り除き、写真撮影や図面作成などの記録作業も終了しました。これで、大衡中学校東遺跡の調査が全て終了しましたので、次は枛木(はぬき)E遺跡と河原遺跡の調査に進みます。

発掘現場通信第5号

第5号では、発掘調査と並行して実施している土器の整理作業について報告します。

土器の整理作業

今年度で4年目となる国道4号拡幅工事に伴う発掘調査では、彦右エ門橋窯跡を中心に整理用箱(約40cm×60cm×15cm)で約270箱分の遺物が出土しています。現在は、発掘調査成果をまとめた報告書の刊行に向けて、土器の整理作業を実施しています。(過去3年間の調査成果については「発掘調査情報201920202021」をご覧ください。)

接合から復元作業

出土した土器3

写真1:出土した土器の多くは、破片の状態でみつかるため、水洗いやネーミング(出土した年月日・地点・遺構・層位などの記載)作業を行った後、土器を元の姿に復元する接合作業を行って、形や文様などを明らかにしていきます。写真は出土した土器の一部をテーブルに広げているところです。一部でもかなりの量です!

出土した土器1

写真2:まず、大量の破片の中から出土地点が近いもの、さらには色合い・厚さなどが似ているものを集めて、接合するかどうか確認します。

印が付けられた土器

写真3:接合した破片には、忘れてしまわないようチョークで目印を付けておきます。

土器の復元作業1

写真4:接合した破片は接着剤で接着し、土器を傷つけないように間に紙をはさんで洗濯ばさみなどで固定します。ゆがまないように注意して本来の形状に復元していくのですが、もともとゆがんでいる土器もあるので、それらを見極めながら上手に組み上げていくのは、なかなかコツのいる難しい作業です。

土器の復元作業2

写真5:接合を終えた土器は、一部が欠けていることも多く、欠落部分には石膏を補填します。隙間だらけだった土器を補強することで、後の作業での破損を防ぐことができます。

実測図の作成

土器の実測作業1

写真6:接合や復元作業が完了すると、次は実測図(大きさや厚さ、形状などを計測して図化したもの)の作成にとりかかります。

土器の実測作業2

写真7:計測の際には様々な道具を用います。(写真ではディバイダという長さを測る道具を使っています。)図面には、大きさや製作方法など、土器を観察して知ることができた情報も文字で記録します。

まだまだ多くの土器がありますが、報告書完成まで頑張ります!

【動画】彦右エ門橋窯跡遺物整理レポート「よみがえる土器たち」

整理作業の様子を動画で紹介しています。

発掘現場通信第6号

7月20日(月曜日)から、河原遺跡の調査が始まりました。

河原遺跡の範囲と調査区

図1:河原遺跡の範囲。昨年度の調査では須恵器が出土しています。

今年度は2箇所(黄色の範囲)で調査を行います。さあ、どのような発見があるでしょうか。

重機で表土を取り除く作業

写真1:発掘調査は、北側の調査範囲から開始し、南へと進めていきます(図1)。まずは、重機で表土除去。ただし、重機が入りづらい場所では、人力で表土を取り除くこともあります。

人力で丁寧に土を削る作業

写真2:次に、道具を使って人力で丁寧に土を削り、むかしの人々の活動した痕跡(遺構)がないか慎重に確認します。7月から8月にかけての大衡村の気温は常に30度を超える暑さです。十分な休憩やこまめな水分補給などの対策を講じながら、熱中症にならないよう注意して調査を実施しています。

出土した須恵器の写真

写真3:南側の調査区の北側では、沢(斜面などの地形にみられる小さな谷)の痕跡がみつかりました。時間の経過とともに雨などに流されて沢に堆積した土の中からは、須恵器の破片が出土しています。

出土した須恵器の写真_2

写真4:須恵器は、形や模様(製作時の痕跡)などから平安時代のはじめ頃に作られたと考えられます。

南側の調査区の溝跡の写真

写真5:南側の調査区の南側では、溝跡が1条みつかりました。溝跡に堆積している黒土を丁寧に取り除いていくと、黒土の中から土師器の破片が数点出土しました。土師器の破片の時期は形などから、北側調査区で出土した須恵器の破片と同様、平安時代のはじめ頃と考えられます。溝跡の土を全て取り除き、写真撮影や図面作成などの記録作業を行い、調査を終了しました。

今後は、河原遺跡の別の地点、吹付C窯跡、彦右エ門橋窯跡などの調査を予定しています。

【動画】彦右エ門橋窯跡発掘調査レポート「・・・とある発掘調査現場の1日」

発掘調査の様子を動画で紹介しています。

発掘現場通信第7号

秋の気配が感じられるようになり、朝晩は冷え込んできました。体調管理に気を付けながら調査を行っています。第7号では、令和4年3月7日から23日に実施した吹付C窯跡の発掘調査について報告します。令和4年9月8日からは、吹付C窯跡の追加調査を行っていますので、それについては第8号で報告します。

図1吹付C窯跡の範囲

図1:吹付C窯跡の範囲。この遺跡は、令和3年12月の工事中に発見され、令和4年3月の発掘調査成果を踏まえて、令和4年6月に新たに登録されました。

予想されていなかった遺跡の発見

写真1窯跡の検出状況

写真1:周知の遺跡範囲外で行われていた国道4号線拡幅工事現場で、赤くU字形に焼けた土の中に黒土が堆積している範囲が2個所発見されました。詳しく観察した結果、自然の窪みではなく、人の手によって掘られ、使用されたものであることがわかりました。そのため、急遽、発掘調査を実施することになりました。遺跡は地中に埋もれているという性質上、未だ発見されていない遺跡が多くあります。今回のように、工事中等に予想されていなかった遺跡が発見されることを「不時発見」と言います。

写真2窯跡の掘り下げ状況

写真2:発掘調査は北側で発見されたものから開始し、黒土を人力で丁寧に取り除いていきます。

写真3窯跡の遺物出土状況

写真3:黒土を取り除いた結果、床面からは須恵器(すえき)がたくさん出土しました。また、壁面が熱を受けていることから、須恵器を焼いた窯跡(かまあと)であることがわかりました。発見されたのは焼成室のみで、焚口や作業場(前庭部)、煙出し穴などの他の施設は、残念ながら工事や後世の地形改変で失われていました。※窯の各施設については下記トピックをご覧ください。

写真4窯跡の完掘状況

写真4:北側の窯跡の遺物出土状況です(東からみた様子)。灰色の床面は、熱を受けたことにより、かなり硬くなっています。須恵器は1つずつ出土した位置を記録して、取り上げました。

写真5南側の窯跡の完掘状況

写真5:南側のものも黒土を人力で取り除いた結果、熱を受けて赤く変色した床面が全体に広がっていることがわかりました。遺物はほぼ出土しませんでしたが、北側の窯跡と形状や特徴が類似していることから同様に須恵器を焼いた窯跡と考えられます(東から見た様子)。

写真62つの窯跡の完掘状況

写真6:発見された2基の窯跡では床面の色に違いがみられました。写真右の窯跡(北側)は灰色、写真左の窯跡(南側)は赤色です。須恵器の窯は通常、窯の入口や煙だし用の穴をふさぎ、酸素を遮断して焼き上げるため、焼成温度がとても高く、炎の熱により周りの土壁も焼かれて硬化し、灰色に変化します。南側の窯は、何らかの事情で熱の伝わり方が弱かったことにより壁はあまり硬くならず、赤く変色するにとどまったものと考えられます。

トピック:須恵器と窯

古墳時代の中頃(1600年前頃)に、朝鮮半島から伝わった技術でつくられた新しい土器が日本に広まっていきました。この新しい土器は、山などの斜面をトンネル状に掘った窯の中で1000度以上の高温で焼いたものです。そのために青みがかかった灰色で硬く、水が漏れにくいのが特徴です。こうした新しい土器は須恵器と呼ばれて、壺や甕、皿などいろいろな種類がつくられました。大衡村でも、窯跡が複数みつかっており、それらの窯跡は「大衡窯跡群」と呼ばれています。

窯の構造図

図2:須恵器窯の復元想像図

次回は窯跡の東側の調査成果を報告します。

発掘現場通信第8号

第8号では、第7号に引き続き吹付C窯跡の調査成果について報告します。

9月8日(木曜日)から、窯がある斜面の下方を調査しました。調査の様子は、動画でも公開していますので、そちらもぜひご覧ください。

写真2調査風景

写真1:まずは草を刈り、土を観察できるようにします。今回は、国道4号にかなり近い場所での作業ですので、いつも以上に安全に気を付けて調査を進めていきます。

写真3土層の断面写真

写真2:土層が露出している斜面を、人力で削りながら、土の堆積状況を確認します。その結果、焼いた須恵器を取り出すときに窯の中からかき出された灰や失敗品として捨てられたと考えられる須恵器などを含む黒土の層(灰原、発掘現場通信第7号の図2を参照)を発見しました。

写真4調査風景

写真3:堆積した土を層ごとに上から順番に掘り下げていきます。遺物が出土した際には、どの層から、どのような遺物が出土したのかを記録します。

写真5調査風景

写真4:取り除いた土の中にも、土器の破片が混ざり込んでいないか必ずチェックします。

写真6出土遺物

写真5:灰原からは、須恵器の破片が2点接着した状態で出土しました。窯の中で焼かれた際にくっついて割れてしまったのかもしれません。

写真7出土遺物

写真6:表面がつるつるして光沢がある須恵器の破片も出土しています。窯の中が高温になると、燃料である薪が灰になって焼き物に降りかかり、それらが熱によって溶けて硝子状の膜をつくることがあります。これは、自然釉(しぜんゆう)と呼ばれています。

写真8出土遺物

写真7:双耳坏(そうじつき)と呼ばれる須恵器で、把手(とって)が付いています。古代の役所である官衙や寺で使用されていました。

写真9遺物の出土状況

写真8:灰原からは、須恵器の破片が、整理用箱(約40cm×60cm×15cm)で約10箱分出土しました。灰原の土を全て取り除き、写真撮影や図面作成などの記録作業を行い、調査を終了しました。

今後は、彦右エ門橋窯跡の調査を予定しています。是非、またご覧ください。

【動画】『窯で焼かれた土器たち』大衡村吹付C窯跡発掘調査レポート

発掘調査の様子を動画で紹介しています。

発掘現場通信第9号

9月22日(木曜日)から、彦右エ門橋窯跡の調査を開始しました。

図1彦右エ門橋窯跡の範囲

図1:彦右エ門橋窯跡の範囲。過去の調査では、奈良時代の終わりから平安時代頃(約1200年前)の土器づくりにかかわる施設等の痕跡(遺構)が多数みつかっています。(過去の調査成果は、2019年発掘調査情報、2020年発掘調査情報2021発掘調査情報をご参照ください。)

今年度の調査区は、国道4号大衡道路拡幅工事に伴う用水路の撤去に関わる調査のため、細長い形をしています。昨年度は、今年度の調査区の北側と南側を調査し、奈良時代から平安時代の竪穴建物跡、溝跡、土器を焼いた穴である土師器焼成遺構などが発見され、大量の土師器が出土しています(2021年発掘調査情報)。今年度はどのような発見があるのでしょうか。

土器を焼いた穴

写真1遺構検出状況

写真1:重機による表土除去後、道具を使い人力で土を削って、むかしの人々が活動した痕跡がないか慎重に確認していきます。

写真2遺構確認状況

写真2:何度かきれいに地面を削っていくと、土どうしの色、粒の大きさや混じり方の違いが明瞭になり、4箇所の半円形などの範囲がみつかりました(緑色とオレンジ色)。写真の下半分(北側)は現代の用水路で失われていたため、4箇所の範囲はさらに北側に広がっていたと考えています。現代の用水路は深く掘り込まれていたため、その箇所で4箇所の範囲の断面を確認することができました。緑色の範囲は、断面の形から、むかしの人が掘った穴(土坑)であることがわかりました。

写真3土坑の断面写真

写真3:一方で、オレンジ色の範囲では、底面に焼けたような赤い範囲がみられました。

写真4土師器焼成遺構1

写真4:堆積した土を取り除いていくと、断面で確認した底面の赤い範囲は、熱を受けて固くしまっていることがわかりました。また、土師器の小破片が多く出土しており、この遺構は、昨年までの調査でもみつかっている土師器焼成遺構(2021年発掘調査情報発掘現場通信第3号)であることがわかりました。土師器は、くぼみの中に並べ、ワラや灰をかぶせて焼く「覆い焼き」という方法で焼かれていたと考えられています。

写真5土師器焼成遺構2

写真5:調査区中央部で確認された土師器焼成遺構です。形は隅丸方形で、焼けた赤い土が多く残っていました。今回の調査では、合計3箇所で発見しました。

竪穴建物跡

写真1竪穴建物跡

写真1:調査区中央部分では、長方形の黒土の範囲がみつかりました。黒土の範囲は調査区の外(北側)まで広がっていると考えられます。大きさは、東西方向が約6mで、堆積土を取り除いた結果、全体に平坦で白い粘土の面が出てきました。地面を掘りくぼめた後に、掘り上げた土で埋め戻し平坦面をつくり、さらに白い粘土を薄く貼って床面としていたことから、これらは竪穴建物跡であることがわかりました。

写真2床面からみつかった壺

写真2:竪穴建物跡内からは、多数の遺物がみつかりました。写真は、北側中央部の床面からみつかった甕または壺の底部です。

写真3須恵器の蓋

写真3:同じく北側の床面からは、須恵器の蓋が裏側を上に向けて出土しました。

写真4軒平瓦

写真4:西側周溝部分からは、軒平瓦がみつかりました。この瓦は、寺院や役所などの建物の屋根の軒先に葺かれるものですが、歪みや割れがあって失敗品として捨てられた後に、周溝の蓋として転用されていたと考えられます。瓦をよくみると、のこぎりの刃のような文様があります。

竪穴建物跡などの土を全て取り除き、写真撮影や図面作成などの記録作業を行い、調査を終了しました。

今回の彦右エ門橋窯跡の発掘調査では、整理用箱(約40cm×60cm×15cm)で約14箱分の遺物が出土しました。種類も多く、様々な土器がこの場所でつくられていたことがわかりました。

今年度の野外調査はすべて終了しました。これから、報告書刊行に向けて、出土した遺物の整理作業を行っていきます。その様子を随時報告していきたいと考えていますので、次回もお楽しみに!

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2.後沢遺跡・後沢道南遺跡

【基本情報】
所在地 栗原市築館字萩沢後沢ほか
調査原因 (仮称)栗原インターチェンジ整備事業
調査期間 令和4年7月4日~
調査主体 宮城県教育委員会
調査協力 栗原市教育委員会
調査面積 調査中
【調査概要】
  • (仮称)栗原インターチェンジ建設の計画地内に、後沢遺跡、後沢道南遺跡、大天馬遺跡、下萩沢遺跡、木戸遺跡が含まれていたことから、令和2年度以降、工事と遺跡との関わりを調べる確認調査を実施しました。
  • 調査の結果、後沢道南遺跡と後沢遺跡で竪穴建物跡などが発見され、遺跡を現状のまま保存できないか事業者の北部土木事務所栗原地域事務所と協議をかさねましたが、やむを得ず工事で壊されることになった箇所については、詳細な記録を残すための本発掘調査を実施することとなりました。
  • 調査は宮城県が主体となり、令和3年度から開始しています。昨年度の調査では後沢道南遺跡で奈良・平安時代の竪穴建物跡2棟、掘立柱建物跡1棟、柱列跡1条、土坑1基、縄文時代の土坑1基などがみつかっています。
  • 令和4年6月5日(日曜日)には、昨年度の調査成果にもとづいて、事業者である北部土木事務所栗原地域事務所が発掘調査や竪穴建物建築体験などの小学生向け学習イベントを開催し、当課も協力しました。

宮城県北部土木事務所栗原地域事務所ホームページ

『くりはら・あい・しー通信』第6号体験学習会特別編

発掘現場通信第1号
調査の開始

今年度は7月4日(月曜日)から後沢遺跡の調査を開始しました。

写真1遺跡の範囲

写真1:後沢遺跡と後沢道南遺跡の範囲。

写真2重機での表土除去

写真2:調査箇所の周辺はつい最近まで水田として利用されていました。調査ではまず、遺跡内で工事が行われる範囲の表土を重機で除去し、当時の人々が生活した面まで掘り下げ、住居跡などの生活等の痕跡、土器などの出土の有無を把握することから始めました。現在の地表面から深さ30~50cmのところで、当時の人々が生活した面に到達しました。

写真3遺構精査

写真3:重機による表土除去後、道具を使い人力で土を削って、色や硬さに違いがないか丁寧に確認します。

写真4竪穴建物跡

写真4:確認の結果、黒い土が堆積している一辺約5mの四角い輪郭を1箇所みつけました。後沢遺跡では、平成27年度にも「みやぎ県北高速幹線道路」の工事に伴って発掘調査が行われており、その際にも、類似した形や大きさの輪郭がみつかっています。これらは調査によって、奈良時代の竪穴建物跡であったことがわかっており、今回みつけた黒い範囲も同じように竪穴建物跡ではないかと予想されます。

次回からは、いよいよ人力で黒い土を取り除きながら、細かく調査していきます。はたして竪穴建物跡なのか?土器などは出土するのか?いつの時代のものか?わかり次第、報告しますので、是非また、ご覧ください。

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3.高田山遺跡

【基本情報】
所在地 栗原市築館高田
調査原因 市道建設事業
調査期間 令和4年6月8日~
調査主体 栗原市教育委員会
調査協力 宮城県教育委員会
調査面積 調査中
【調査概要】
  • 高田山遺跡は、栗原市の市街地中心部、栗原市役所から南東へ約500mの場所に位置しており、標高60m程の小高い丘の上に立地しています。縄文時代および奈良・平安時代の遺跡として登録されています。
  • 今回、遺跡西部に市道の建設が計画され、保存協議を重ねた結果、やむを得ず遺跡の一部が壊されることとなったため、本発掘調査を令和4年6月から開始しました。
第1号

高田山遺跡の位置図

図1:高田山遺跡の範囲。

調査風景1

写真1:作業風景です。重機による表土除去後、道具を使い人力で土を削って、むかしの人々が活動した痕跡がないか慎重に確認しています。(写真提供:栗原市教育委員会)

調査風景2

写真2:楕円形や円形の黒い部分が何か所もみつかりました。これからこの黒い土を手作業で除去していきます。さて、これらは一体何なのでしょうか?(写真提供:栗原市教育委員会)

第2号

夏本番となりとても暑い日が続いています。熱中症にならないよう、十分な休憩やこまめな水分補給など、対策を講じながら調査しています。

前回報告のとおり、調査区内では楕円形や円形などの黒い土の範囲が多数みつかっていましたが、いよいよこれらを掘り下げます。

貯蔵穴調査写真

写真1:まずは、18箇所みつかっている楕円形や円形の黒い範囲の半分を人力で掘り下げました。黒土を半分残しているのは、後で土を細かく観察し記録するためです。底面まで掘り下げてみると、穴の深さは1mを越すものもあり、しゃがむと人がすっぽり隠れるほどの大きさです。底面はほぼ平坦で、このような穴は縄文時代の遺跡に多くみられるもので、食糧などを貯めておくためのもの(貯蔵穴)と考えられています。また、断面観察の結果、穴は人為的に埋め戻されたものではなく、雨水などによって土が自然に流れ込んだことがわかりました。(写真提供:栗原市教育委員会)

貯蔵穴出土遺物写真

写真2:穴の中からは、縄文時代中期中頃(およそ4500年前)の土器(浅い鉢形のうつわ)がみつかっており、穴が掘られたのも同じ時期と考えられます。(写真提供:栗原市教育委員会)

陥し穴調査写真

写真3:貯蔵穴とは少し離れた場所で、細長い穴が1箇所みつかりました。これらは獣などを捕まえるための陥し穴と考えられるもので、細長いため鹿などが脚を入れると身動きがとれなくなり、簡単には脱出できない仕組みになっています。(写真提供:栗原市教育委員会)

4.西岡遺跡

【基本情報】
所在地 加美郡加美町上狼塚字南北原
調査原因 農道上狼塚北3号線改良事業
調査期間 令和4年7月11日~
調査主体 加美町教育委員会
調査協力 宮城県教育委員会
調査面積 調査中
【調査概要】
  • 西岡遺跡は加美町役場から北東へ約2kmの場所に位置し、水田に囲まれた標高約30mの平地に立地する遺跡で、古墳時代から奈良・平安時代の集落跡として登録されています。
  • 今回、町が管理する農道上狼塚北3号線の拡幅・舗装化が計画されました。計画地が南北原遺跡と西岡遺跡の範囲に含まれていたことから遺跡を保存するための協議を重ねましたが、やむを得ず遺跡の一部が壊されることとなったため、本発掘調査を実施することとなりました。
  • 調査は加美町教育委員会が主体となって平成30年度から開始しており、当課は職員(調査員)を派遣して協力しています。
第1号

西岡遺跡の範囲

図1:西岡遺跡の範囲。

遺構の検出状況

写真1:重機による表土除去後、道具を使い人力で丁寧に土を削って、むかしの人々が活動した痕跡(遺構)がないか確認したところ、四角形の黒い土の範囲が2か所(黄色の矢印の1・2)などがみつかりました。(写真提供:加美町教育委員会)

竪穴建物跡の掘り下げ状況

写真2:四角形の黒い土の範囲を人力で掘り下げていくと、北東側にカマド(黄色の点線の範囲)が作り付けられた竪穴建物跡であることがわかりました。カマドは竪穴建物跡の壁際に作り付けられ、煙は屋外へ排出する構造になっています。また、カマドの脇(黄色の矢印)には、古墳時代中期(およそ1600年前)の土師器の甕が置かれていました。(写真提供:加美町教育委員会)

竪穴建物跡出土の土師器

写真3:カマド脇の土師器の甕は、ほぼ完全な形のまま、上下逆の伏せられた状態で置かれており、竪穴建物を廃棄する際にまつりの道具(祭祀具)の一つとして置かれたものと考えられます。(写真提供:加美町教育委員会)

【動画】「チョット、お住まい拝見します。」宮城県加美町西岡遺跡発掘調査レポート

発掘調査の様子を動画で紹介しています。

5.馬牛館跡

【基本情報】
所在地 白石市斎川字舘山
調査原因 鉄塔建設
調査期間 令和4年9月28日~
調査主体 白石市教育委員会
調査協力 宮城県教育委員会
調査面積 約1155平方メートル
【調査概要】
  • 馬牛館跡は、東北本線白石駅から南西約6kmの場所に位置しており、標高190m程の独立丘陵上に立地しています。中世の城館跡として登録されています。
  • 馬牛館跡周辺の地域は、天文年間(1532年から1555年)以降に伊達氏の一族である桑折氏の所領となっており、馬牛館跡も桑折氏の城とみる考えもありますが、詳しいことは分かっていません。
  • 今回、遺跡北部に送電用鉄塔の建設が計画され、保存協議を重ねた結果、やむをえず遺跡の一部が破壊されることとなったため、本発掘調査を令和4年9月から開始しました。
第1号

図1馬牛館跡の範囲

図1:馬牛館跡の範囲。

写真1馬牛館跡の航空写真

写真1:上空から見た馬牛館跡です。中央の木が伐採されている範囲が調査区です。(写真提供:白石市教育委員会)

写真2馬牛館跡の遠景写真

写真2:馬牛沼を挟んだ対岸から馬牛館跡を見た風景です。

写真3作業風景

写真3:作業風景です。重機による表土除去後、道具を使い人力で土を削って、むかしの人々が活動した痕跡がないか慎重に確認していきます。

写真4遺構の掘り下げ状況

写真4:確認の結果、長方形の黒土の範囲が2個所みつかりました。黒土の範囲を人力で掘り下げた結果、古代から中世の時期と考えられる炭窯跡であることがわかりました。黒土を十字に残しているのは、後で土を細かく観察し記録するためです。1基から土師器の小破片が出土しています。

写真5出土した木炭

写真5:炭窯跡からは木炭の大きな破片が多く出土しました。

写真6完掘状況

写真6:炭窯跡の平面形は長方形で、底面には長軸方向に浅い溝が付けられています。福島県の浜通り地方などで多く確認されている開放窯型木炭窯跡に形態が類似しており、天井部を設けずに土で覆って木炭を焼成したものと考えられます。炭窯跡内の土を全て取り除き、写真撮影や図面作成などの記録作業を行い、調査を終了しました。

今後は、馬牛館跡の全体像を把握するために測量調査を実施する予定です。

第2号

第2号では、馬牛館跡の地形測量調査について報告します。

地形測量調査は、前回の第1号で報告した発掘調査区が、城跡全体のどの場所にあたるのかを調べることを目的としています。地形を記録しながら、城跡に関わる防御施設等の広がりを把握していきます。

発掘調査区に近い馬牛館跡北半部の測量はすでに行っていますので、今回は、残りの南半部が対象です。

写真1測量風景

写真1:測量機械は非常に重たいので、それらを持って城跡の急斜面を登っていくのはとても大変です。登ったり降りたりを毎日繰り返します。

写真2測量作業風景

写真2:地形の変化を観察しながら、測量作業を行っていきます。木々や笹ヤブの中での測量作業は、障害物がたくさんあるため、なかなか進みません。下草を刈り払いながら、測量機械を操作して城跡の地形を記録していきます。これまでは大まかな略図しかなかった馬牛館跡の姿が徐々に明らかになっていきます。

写真3堀と切岸

写真3:空堀(写真中央)と土塁(盛り土などで造った防御のための土手、写真左側)です。空堀や土塁は、曲輪(防御施設で囲まれた平坦面)の外側にあり、城への侵入を阻むための施設です。

写真4東側の土塁と切岸

写真4:切岸(斜面を削って急傾斜にした人工的な崖)と土塁です。土塁は曲輪の端に造られ、その外側に切岸が設けられています。さらに、写真の左奥には屈曲部がみられたため、入口に進もうとする敵に対して、横から矢を射かけられる構造になっていたと想定されます。

写真5切岸1

写真5:主郭(城館の中心的な曲輪)西側の切岸です。高いところでは4~5mの高さがあります。

写真6堀切1

写真6:城跡の南端で新しく発見した堀切(尾根筋をV字状に切断した堀)です。堀切は、細い尾根地形を堀によって切断することで、尾根を伝って侵入してくる敵を遮断します。主郭の南側には3つの堀切が設けられていたことがわかりました。

図1測量図1

図1:測量機械で作成した詳細な地形図の一部です。平坦な面や斜面などの現況の地形を、わかりやすく捉えることができます。

図2縄張り図と描写イメージ

図2:地形図をもとに、切岸や曲輪など城跡に関わる遺構を描いた縄張り図も作成しました。縄張り図とは、地表観察で確認した城館の現況遺構やそれに類似する地形を、簡易測量によって地形図上に記録したものです。人工的に造られた斜面の上端を太い実線で、下端を破線で表現します。また高低差を表現するためにケバと呼ばれる細い線を用います。緩斜面は、間隔をあけた短いケバで、逆に急斜面は長いケバを密な間隔で描きます。

今回の地形測量調査によって、曲輪・切岸・土塁・空堀など、城館の防御施設等の形状や位置などが明らかになりました。また、主郭の南側で、これまで知られていなかった堀切を発見することができました。

今年度の野外での調査は、11月30日(水曜日)ですべて終了しました。これから、報告書刊行に向けて、出土した遺物や図面の整理作業を行っていきます。

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B.復興事業に伴う発掘調査

1.復興調査の基本方針

東日本大震災発生後、宮城県教育委員会としては、復興事業と埋蔵文化財保護を両立し、高台移転や復興道路などの復興事業に伴う発掘調査の円滑・迅速な実施に取り組んでまいりました。

2.円滑・迅速な発掘調査のための施策

(1)宮城県発掘調査基準の弾力的な運用

復興事業に限り、遺跡が壊される範囲(平面・深さ)のみを調査対象としました。これにより、盛土施工部分や下層の調査等を省略することが可能になるため、調査期間を短縮することができました。

3.主な復興事業に伴う調査

  • 復興道路建設事業に伴う調査(県市町道建設)
  • 被災した個人住宅,零細・中小企業の再建事業に伴う調査
  • その他復興事業に伴う調査
1.大久保貝塚
【基本情報】
所在地 本吉郡南三陸町志津川字大久保
調査原因 水尻川河川災害復旧工事
調査期間 令和元年9月9日~令和2年7月28日
調査主体 宮城県教育委員会
調査協力 南三陸町教育委員会
調査面積 約150平方メートル

【調査概要】

  • 大久保貝塚は、志津川湾の湾奥部、水尻川の南岸に位置する縄文時代の貝塚で、河口に面した丘陵の裾部に貝層が形成されています。
  • 今回の調査は、東日本大震災に伴う河川災害復旧工事に先だって実施したもので、令和元年9月から開始し、令和2年7月に屋外調査を完了しました。現在は報告書刊行に向けた整理作業を実施中です。
  • 調査の結果、貝層は上部と下部の大きく2つに分けられ、上部が縄文時代晩期、下部が後期に形成されたことがわかりました。
  • 貝層からは、縄文土器、石器、骨角器(動物の骨や角で作った道具や装飾品)や、アサリ・カキなどの貝類、シカ・イノシシなどの動物の骨、イワシ・アイナメ・マグロなどの魚の骨が大量に出土しています。これらの道具や食料を調べることで、当時の人びとの暮らしぶりを知ることができます。
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発掘調査概要資料
【動画】「縄文時代へタイムスリップ!発掘調査ダイジェスト」
  • 発掘調査の様子を動画で紹介しています。
    •  
整理作業通信第1号

昨年度から、整理作業の“いま”をお知らせする「整理作業通信」をスタートしました。

今年度第1号のテーマは「土器の復元作業と図面作成作業」です。

土器の復元作業

大久保貝塚からは整理用箱(約40cm×60cm×15cm)で約170箱分の縄文土器が出土しています。それらの多くは破片の状態でみつかるため、となりあう破片同士を接着(接合)して元のかたちに戻していきます(詳しくは「2021発掘調査情報整理作業通信第1号」をご覧ください)。

復元作業2

写真1:接合作業を経た土器は、破片が欠落していることが多いため、欠落部分には石膏を補填します。こうすることで、破片が欠落して隙間だらけだった土器を補強でき、図面作成などの作業中に破損することを防げます。

復元作業1

写真2:水で溶いた石膏で大まかに形を作ったあと、ナイフやヤスリで削って形を整えていき、もともとの形に近づけて復元が完了します。

図面作成作業

接合や復元作業が完了した土器は、報告書に掲載するために図面を作成していきます。

実測図作業1

写真3:竹素材で作られているマコ(真弧)という道具を土器に押し当てて輪郭を型取りし、土器の微妙な湾曲などを捉えていきます。

実測図作業2

写真4:キャリパーという厚さを計る道具を用いて、土器の底面から口縁までの間で位置を変えながら厚みを正確に計測していきます。

実測図作業3

写真5:マコ(真弧)やキャリパーなどで計測した土器の輪郭や厚さに加えて、文様や粘土を積み上げるなどした製作の痕跡も正確に計測し、図面を作成していきます。

トレース作業2

写真6:手描きで作成した図面はパソコンに取り込み、報告書に掲載するための図面としてパソコン上で線をなぞって仕上げていきます。

トレース作業1

写真7:手描きで図面を作成する方法のほかに、原寸大の写真などを下図としてパソコン上で図面を作成し仕上げていく方法もあります。

報告書に掲載予定の縄文土器は700点以上あり、こうした作業は今年度一杯継続していく予定です。担当職員全員で力を合わせ、毎日コツコツ頑張っています。

整理作業通信第2号

第2号のテーマは「石器や石製品の整理作業と石材調査」です。

石器の整理作業

大久保貝塚からは整理用箱(約40×60×15cm)で約500箱、主なものだけでも重さ2.6t以上となる大量の石器や石製品が出土しています。種類も多種多様で、石器には狩猟・漁撈具である石鏃(せきぞく[やじり])や食料加工具の磨石(すりいし)、敲石(たたきいし)、台石(だいいし)、板状石器などがあり、石製品には、まつりの道具である石棒や石刀などがみられます。

石器の整理作業状況1

写真1:整理作業では、石器や石製品を一つ一つ丁寧に観察し、かたちや大きさ(長さ、幅、厚さや重量など)、使われている石の種類(石材)などの項目をもとに分類していきます。

石器の整理作業状況2

写真2:分類した石器や石製品は、分析などに備えて、傷や汚れがつかないよう丁寧に袋に入れて収納します。

石材調査

観察していく中で、大久保貝塚出土の石器や石製品には28種類の石材(粘板岩、砂岩、花崗岩、砂質ホルンフェルス、珪質頁岩、黒曜石など)が使われていることがわかりました。むかしの人々はこれらの石を、どこから?どのように?集めていたのでしょうか。

石材調査地点図

5月20日(金曜日)、南三陸町の地質図をもとに大久保貝塚周辺(約10km圏内)の海岸や河川沿い計6か所で、採取できる石の種類や形、その量などを調べる石材調査を実施しました。

小浜地区

写真3:遺跡から南に約3.5kmほど離れた小浜地区の海岸では、波に洗われて丸くなった礫岩(れきがん)や頁岩(けつがん)の小石が多量に打ち寄せられていました。それらは、石器の材料としては小さすぎて適さないものが多く、石器に使われそうな石はほとんど採れませんでした。遺跡に近い弁天崎地区おいてもほぼ同様な状況でした。

水戸辺地区

写真4:小浜地区の東にある水戸辺地区の海岸では、硬い石である花崗岩(かこうがん)がみつかりました。大久保貝塚出土の石器の中では、食料などの加工具(磨石、敲石、台石)の石材として使われています。

秋目川地区

写真5:内陸部の秋目川地区では、川底で砂質ホルンフェルスという石をみつけました。目が細かく鋭く割れる特徴があり、大久保貝塚では、食料などの加工具と考えられる板状石器やまつりの道具である石棒や石刀など様々な種類の石器や石製品の石材として使われています。鏡石地区においても同様な石がみられました。

歌津地区1

写真6:歌津地区の海岸では、人の背丈ほどもある岩が浜全体にみられました。ここでは粘板岩(ねんばんがん)を多くみつけることができました。

歌津地区2

写真7:粘板岩は、目に沿って板状に薄く割れる特徴があります。大久保貝塚では、板状石器や石棒や石刀など様々な種類の石材に使われています。

[まとめ]

今回の石材調査では、大久保貝塚周辺の海岸や河川で、大久保貝塚で出土している石器や石製品と同様の石材をみつけることができました。しかし、石の矢尻(石鏃)などに使われる珪質頁岩や黒曜石など、一部の石材はみつけることができませんでした。これらは、他の地区、またはより遠い地域から運ばれてきている可能性があります。石器や石製品の石材をどこから、どのように手に入れていたのかを明らかにすることは、むかしの人々の生活を知る上でとても重要な手がかりとなりますので、石材調査は今後も継続して実施したいと考えています。

整理作業通信第3号

第3号のテーマは「自然遺物(動物や魚の骨、貝殻など)」です。

自然遺物の整理

大久保貝塚の発掘調査では、土器や石器以外にも、動物や魚の骨、貝殻などの自然遺物をすべて回収しています。その数は、整理用箱(約40×60×15cm)で450箱以上の膨大な量となりました。

これらは縄文時代の人々が、どのようなものを、どのくらい食べていたのかを知るための証拠になるとともに、当時の自然環境を知る上で貴重な情報にもなります。

自然遺物の整理1

写真1:発掘調査では、土ごと骨や貝殻を回収し、その後、篩(フルイ)を使いながら水洗いして骨や貝殻だけを取り出します(水洗フルイ)。取り出した骨や貝殻は作業しやすいように机などに広げます。

自然遺物の整理2

写真2:机に広げた遺物は、大小様々な骨や貝殻、小石などが混ざった状態なので、おおまかな種類毎に選り分けていきます。

自然遺物の整理3

写真3:骨として選り分けたものは、動物の種類を判別して抜き出していきます。写真右側に集められた骨はシカ、イノシシ、鳥などに判別されたものです。左側の小さな破片は、種類の同定が出来なかったため、分析から除きます。

動物遺存体1

写真4:鳥の骨(赤枠)と小動物の骨(緑枠)です。小動物の骨の中にはイタチの顎(あご)の骨(黒枠)もありました。では、なぜこれがイタチの骨だとわかるのか・・・説明します。

動物骨の種別同定

大量の骨をある程度選別し終えた後は、それらが体のどの部分の骨であるかを調べます。

イノシシの骨整理状況

写真5:まずは、効率よく同定できるよう、形が似ているものを選んで並べます。写真はイノシシの距骨(くるぶしの内側の骨)などです。

骨の同定作業

写真6:次に、現代の動物の骨(現生標本)と見比べ、どの動物のどの部位か、さらに成獣か幼獣かなどを正確に判断していきます。同時に、当時の人々によりつけられた(狩猟や解体時など)キズなどの細かな観察や、大きさなどの計測も行います。

現生標本

写真7:現生標本には、頭や手足だけでなく歯や指の骨まで骨格が一通り揃っているため、出土した動物の骨の種類と部位を正確に判断できるのです。写真はタヌキの現生標本です。

イノシシの下顎骨

写真8:イノシシやシカの骨は、とくに多く出土しました。写真はイノシシの下あごの骨です。海辺の大久保貝塚に住んだ人々も、海産物だけでなくイノシシやシカなどの動物も日常的に食糧としていたようです。

クジラの椎骨

写真9:大きさ30cm程のクジラの椎骨もありました。

マグロの椎骨

写真10:切株のような形をした骨はマグロの椎骨(背骨)です。

マグロの椎骨と石鏃

写真11:マグロの椎骨に石の矢尻(石鏃)が突き刺さったものも出土しています。

動物の骨を一つ一つ同定していく作業は、非常に多くの時間がかかりますが、日々新しい発見があります。食糧としていた動物の骨から、縄文時代の人々が、周囲の自然とどのように関わりながら生きていたのかに思いを馳せることが出来るのは、貝塚の整理作業ならではです。

【動画】「縄文時代へタイムスリップ!出土動物骨の整理作業」

出土動物骨の整理作業の様子を動画で紹介しています。

整理作業通信第4号

第4号では、縄文土器の種類について紹介します。

縄文土器の種類

大久保貝塚からは、縄文時代晩期後半(約2700年前)の土器が大量に出土しています。今回はその中から一部を紹介します。

写真1深鉢と鉢

写真1:まず紹介するのは鉢形の土器です。口が大きく開き深さがあります。口の最大径と高さの比率で深鉢(右奥・中央)と鉢(左奥・手前)に区別しています。用途は、深鉢が煮炊きの道具、鉢は煮炊きあるいは盛り付け用の器と考えられています。鉢形の土器は、出土土器の種類の中で最も多くみられます。

写真2深鉢内の炭化物

写真2:深鉢には、内側に炭化物が黒くこびり付いているもの(赤枠)もみられます。これは、調理の際に食材が焦げ付いたものと考えられます。この炭化物の自然科学分析を行うことで、調理された食材がわかるとともに、土器が使用されていた年代も推定することができます。

写真3台付鉢の写真

写真3:鉢の一部には台の付くものや装飾が施されているものがあります。

写真4浅鉢

写真4:次は浅鉢を紹介します。用途は主に盛り付け用の器と考えられています。一番左側の土器のように台が付くものもあります。

写真5補修孔

写真5:写真4中央の土器には、小さな孔が開けられています(赤枠)。この小さな孔には紐などを通して、割れた破片と本体をつなぎ合わせて補修した痕跡と考えられます。

写真6四脚付土器

写真6:写真4右側の土器の底(赤枠)には、コブ状の四脚が付いています。

写真7壺形土器

写真7:次に紹介するのは壺です。球形の胴にすぼまった口が付く形をしており、中に入れたものがこぼれにくくなっています。装飾が施されているものも多くみられます。

写真8注口土器

写真8:急須のような形をした注口土器も出土しています。名前の通り、注ぎ口が付いています。丁寧な装飾が施されたものが多く、一番右側の土器のように赤い顔料が塗られていたものもあります。

写真9香炉形土器

写真9:最後に紹介するのは、少し変わった見た目の土器です。形状から香炉形土器と呼ばれていますが、実際の用途はわかっていません。三角形や円形の透かしがあり、全体に装飾が施されています。

現在は、報告書に掲載するために、これらの土器の図面を作成しています。報告書の刊行に向けてコツコツと作業を進めています。

【動画】「縄文時代へタイムスリップ!」宮城県南三陸町大久保貝塚出土土器の紹介

出土した縄文土器を動画で紹介しています。

整理作業通信第5号

第5号では、骨角牙貝製品の種類について紹介します。

骨角牙貝製品の種類

大久保貝塚からは、動物の骨・角・牙、貝殻などを素材とした道具や装身具〈アクセサリー〉が合わせて約3000点出土しています。これらは、当時の生活をより詳しく知る手がかりになります。今回はその中から一部を紹介します。

写真1狩猟や漁労の道具たち

写真1:狩りや漁に使われた道具です。これらはほとんどがシカの角を素材としており、折れにくく加工しやすい性質を活かして、用途に応じた様々な形に加工されています。現在とほぼ同じ形の釣針や鏃〈矢の先端〉【赤線内】のほか、大きな獲物に打ち込む銛頭【濃青線内】や、獲物を又の間に挟み込んで捕らえるための組み合わせ式ヤス【水色線内】などがあります。

写真2回転式離頭銛

写真2:回転式離頭銛(かいてんしきりとうもり)の銛頭です。シカ角の尖った先端を加工した漁具の一種で、軸を受ける窪み〈ソケット〉、又状の逆向きの突起、そして中心に孔が開けられているのが特徴です。

図1回転式銛頭の模式図

図1:銛頭は、軸の先に装着され、孔に綱をくくりつけたと考えられています。獲物に突き刺さったあとは軸から銛頭が離れて90度回転し、肉や皮に引っ掛かることで抜けにくくなる構造となっています。獲物に銛頭が突き刺さった後に綱を手元まで手繰り、獲物が弱ったあとに捕らえることができたと考えられています。

写真3垂飾などの装飾品

写真3:動物の骨・角・牙は、様々な装身具の素材にもなっています。赤線内は動物やサメの歯牙に孔を開けた垂飾〈ペンダント〉、濃青線内はイノシシの牙を板状に加工した装飾品で、精緻な彫刻が施されています。ほかには棒状の装身具〈髪飾り?〉【緑線内】や針などがあり、多彩な模様で美しく加工されています。

写真4ゆはず形製品ほかの装飾品

写真4:赤線内は弭(ゆはず)形製品です。用途は諸説ありますが、弓の両端に取り付けて弦をかける部品と考えられています。これらにも精緻な加工が施されています。濃青線内は鳥の骨を輪切りにして彫刻を施したもので、紐に繋げて装身具としていたと考えられています。

写真5貝輪など

写真5:貝殻を環状に加工した貝輪(かいわ)や、容器などに加工した製品です。貝輪は、丁寧に研磨された完成品のほか、製作途中のものや素材と考えられる貝殻が大量に出土しました。貝の種類によって大小様々で、大きいものは腕輪、小さいものは垂飾〈ペンダント〉として使われたと考えられます。貝製品のなかには西南日本の諸島部にのみ生息するオオツタノハという貝【赤線内】や、西日本に生息するイモガイ【水色線内】で作られたものもあり、広い地域との交流が伺われます。

骨角牙や貝製品は、いずれも縄文時代の人々の知恵と工夫、高い加工技術、そして美意識の一端を伺わせる貴重な資料です。縄文時代の生活を解き明かすために、日々整理作業に取り組んでいます。

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文化財課埋蔵文化財第一班

宮城県仙台市青葉区本町3丁目8番1号

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